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デリヘル出勤速報 福島コラム 白虎隊

白虎隊は、会津戦争に際して会津藩が組織した、15歳から17歳の武家の男子によって構成された少年兵の部隊。他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊などもある。

慶応4年、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となる。
白虎隊は本来は予備兵力であり、隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成っている。充足数はおよそ340名程度。また、装備していた火器は旧式銃のみであったとされている。これは火縄銃よりはましというレベルの装備で、新政府軍の主力である西南雄藩部隊の装備に対して著しく劣っていた。ただし、東北諸藩のほとんどは軍備の更新を行わないまま戊辰戦争に突入していたため、白虎隊のみが旧式装備を与えられていたわけではなかった。
会津藩では鶴ヶ城を死守すべく若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な兵力で迫る新政府軍に対して劣勢は否めなかった。その上重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なった。本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊もこれを支援する形で前線へと進軍する。少年兵の投入など無駄であると誰もが承知のことであったが老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入された。
しかし会津軍の劣勢は著しく、白虎隊も各所で苦戦を強いられていた。なかでも最精鋭とされていた士中隊が奮戦空しく撤退を余儀なくされ、このうち一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たったが、二番隊は戸ノ口原で決定的打撃を受けて潰走した。このとき戦死者も少なからずあり、負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びたのである。このとき庄田保鉄ら隊員数人は農家で草鞋を貰い受けている間にはぐれてしまう。
しかし、飯盛山から眺めた光景が、戦闘による市中火災の模様を若松城が落城したものと誤認してしまい総勢20名が自刃した。一命を取り留めた飯沼貞吉を除く19名が死亡した。実際に城は落ちておらず、途中はぐれた庄田保鉄らはその後、鶴ヶ城に入城し、 士中一番隊の生存者と共に白虎士合同隊となって、西本丸を守る。 篭城戦は1ヶ月続いたが、最終的に会津藩は降伏。
その後、飯沼貞吉は電信技士として維新後を生き抜き、1931年に79歳で永眠。飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年であり、そこから白虎隊の最期の様子が現在に伝わっていった。ちなみに、日清戦争時に電信技師としてソウルに渡った際に護身用としてピストルを携帯するように言いつけられていたが、「自分は白虎隊として死んだ身である」と断ったという逸話が残されている。同じ「士中二番隊」の隊士であった、酒井峰冶の手記が近年発見されたが、酒井も生前、当時のことは家族にもほとんど話さなかったという。飯沼の遺骨の一部は、遺言によって飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬された。但し、飯沼が生き残った事に対し「武士としての最期を遂げず生き恥をさらした」として非難する傾向もあり、飯盛山の墓は他の隊士の墓から距離を置いて建てられた。
予備兵力であったために火力を持ちえなかった事から、戦局への影響力はさしたるものではなかったが、隊が終始、組織的戦闘行動を取れていたことは特筆に価するものである。

なお、飯沼貞吉の生還により明らかとなった19名の落城誤認による自刃ばかりが「白虎隊」としてとりあげられているが、実際には全体の8割以上の290名の若者が生き延びたと言われていることに対する一般の認知度は極めて低い。